いつまでもあると思うな親と金。
憲剛の引退発表のとき、この言葉を思い出しました。
私の中では2016年末のシーズンオフが引退するのではという心配がピークで、それ以来は憲剛の引退は心配していなかったからです。
今年も怪我から復帰し、新しい40代のJリーガーの形を来季も見せてくれるものだとばかり思っていました。
なので、いつまでもあると思うな親と憲剛。引退発表のライブ中継を見ながらそんな言葉を思い浮かべたのです。
あれから2ケ月。いよいよ中村憲剛引退セレモニーの日が来てしまいました。
中村憲剛引退セレモニーに思う「長嶋茂雄と中村憲剛」
長嶋茂雄と中村憲剛
私が相当小さな子供の頃、読売巨人軍の長嶋茂雄が引退しました。
テレビで見た引退セレモニーでは、大の大人たちが涙を流しながら「やめないでくれ!」と叫んでいる姿を見て、長嶋茂雄の偉大さを思い知ったのでした。
物が今のように豊かでは無かった時代、異例の引退グッズも売られました。
まだビデオテープも無い時代、私は試合の実況が録音されたレコードを買った記憶があります。そして何度も長嶋の、あの歴史的なスピーチを聞きました。
本屋さんには長嶋が表紙になった引退記念雑誌が沢山売られ、今の言い方で言えば「長嶋ロス」は社会現象となりました。
あれから46年。
今では私が大人(おやじとも言う)になり、大好きなフロンターレの番頭である中村憲剛の引退を等々力で見送ることになったのです。
長嶋の時とは時代も違うし、そもそも野球とサッカーではメディアの扱いも違う(野球チームにはメディア(新聞)がオーナーの会社が多い為)。
それでも私の中では、あのミスタージャイアンツ長嶋茂雄の引退と被るのでした。そう中村憲剛こそがミスターフロンターレなのです。
長嶋茂雄といえば、もちろん生涯成績も素晴らしいのですが、やはり記憶に残る試合が多く、今でもたびたびテレビの特番などで放送される事があるので、ご存知のかたも多いと思います。
そして何よりも、ファンあってのプロ野球というのを一番大切にしている選手でもありました。
こんなエピソードがあります。
ある新聞記者が長嶋選手に訪ねました。「ミスター(長嶋の愛称)好調ですね。何か秘訣はあるのですか?」
長嶋はこう答えました。「いや、いつもどおり何もしていないんだよ」そう微笑むと記者に自分のお尻のポケットを指差し去っていきました。
記者は、去っていく長嶋のお尻のポケットから握力を鍛えるハンドグリップが飛び出ているのを目にし、急いでシャッターを押したのです。長嶋は記者に記事になるネタを提供したのです。
それ以外には長嶋は、どうしたらお客さんに喜んでもらえる野球ができるか常に考えていたといいます。
大きめのヘルメットを被り、三振も格好良く魅せる。守備でボールを投げるときのスローイングフォーム。ネクストバッターサークルで控えているときの仕草。全てが絵になる男でした。
長嶋は敵味方関係なく、誰からも愛される存在でした。審判も長嶋が好きだった人は多いと思います。
例えば微妙なボールを審判がストライク!とコールしたとき、一般的に選手は「今のボールでしょう」と審判に詰め寄るのですが、長嶋は「アン(アンパイア)ちゃん。いいジャッジだったね。」と褒めるのだそうです。そうすると審判は恐縮して長嶋さんに骨抜きにされてしまうのだそうです。
おっと長嶋茂雄の話だけでだいぶ長くなってしまったのでこれくらいに。。
スポーツ界には他にも多くのスターがいますが、中村憲剛も長嶋と同じく、ファンを大切にし、メディアを上手に使ったファンサービス。そして敵味方問わず愛された選手だったのではないでしょうか。
等々力のコンダクター中村憲剛
この記事を書いている時点では天皇杯が残っていますが、私はどうやらチケットが取れず参戦できなさそうなので、等々力での憲剛を見るのは引退セレモニーが最後だと思っています。
憲剛の凄いところ。もちろん選手としてのキャリアが増すごとにより凄くなっていくのですが、やはり等々力の支配者であったという事が一番心に残っています。
1本のスルーパスでゲームの局面を変えてしまうところや、フリーキックで等々力を熱気の渦に巻き込んでしまうところ。そういうプレーでの凄いところはもちろんです。
でもボールを触っていない所での影響力が凄くあったと思います。
例えば後輩を試合中に叱咤することもあったでしょう。有名な流しでは大島僚太を叱ったあと、僚太がすごいゴールを決めたとか、長いキャプテン時代には憲剛のこうした鼓舞がどれだけの勝点を積み上げていったことでしょう。
私が一番印象的なのは、有名な憲剛の煽りです。
この煽りには何通りかの煽りがあると思っています。
・サポーターへ応援のギアを上げさせる為
・怒りを煽る
・怒りを鎮める
・喜びを共有する
他にもあるかもしれません。
この2つ目と3つ目。
相反することですが、どちらもあると思います。
例えばジャッジに対する不満への抗議として使うこともあったと思いますが、逆にジャッジに対する不満のブーイングを応援にスイッチさせる為に使うこともありました。
これは何かのインタビューで見たのですが、さすが憲剛、等々力のコンダクターだなと感激したものでした。
他にも常にカメラを意識したパフォーマンスや仕草。どうしたら格好良く見えるか、そういうことも上手でした。
そんな写真がメディアを飾れば、子どもたちもよりサッカーへの憧れが強くなるでしょうし、なによりもサポーターが喜びます。
ゴールパフォーマンス以外にも常にそういう意識はあったと思いますね。
川崎に生き、川崎を愛した中村憲剛
ファンサービスといえばフロンターレですが、率先してやってくれていたのが中村憲剛でした。
憲剛さんがやるなら的なノリで後輩が続くという事も多かったと思います。
これから次々へと世代が変わっていっても地元を愛するクラブであって欲しいと心から願います。
憲剛の引退にあたり、川崎中が憲剛に染まりました。
私はいまだかつて、このような送られ方をされた選手を知りません。
クラブのスタッフや天野さんの尽力もあるのでしょうが、やはり川崎の為に生きた中村憲剛だからこそのイベントだなと感じました。
満天の星空の下、各関係者に対する感謝の気持ちや涙を流し話してくれた中村憲剛の未来を担う子供達へのスピーチは生涯忘れません。
「自分で自分の可能性にふたをするな」
これは私の胸にも突き刺さりました。
最後場内を一周している間に等々力に響くスキマスイッチの常田真太郎さんとSHISHAMOが憲剛の為に共作した曲「天才の種」
なんどもリピート再生されているうちに、私の涙腺のボルテージも高まる。
いい曲だ。。
そしてこれで選手中村憲剛を肉眼で捉えるのは最後なのだ。
そう思うと、サポーターになってから今日までのことを多々思い出した。
やはり2017年の初優勝。多くのサポーターが初優勝を喜ぶと同時に、「ああ、憲剛のいるうちに優勝できてよかった。憲剛にシャーレを掲げさせられてよかった。」と思ったに違いなく、そしてあの日の憲剛の涙が私の涙でもあることを思い出しました。
悲しみや悔しさ、そして喜び全てを中村憲剛と共に共有できたことは、私の人生をとても豊かにしてくれました。なんと幸運なことだっただろう。
ありがとう憲剛。
ありがとうミスターフロンターレ!
いつかまた等々力のピッチで会う日まで。
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